フェルメールその軌跡と作品の紹介
スポンサーリンクカラヴァッジョ、レンブラント、ルーベンスらと並び17世紀バロック絵画を代表する巨匠でありながら、資料や作品の少なさから、謎の画家、忘れられた画家、とレトリックがつく、ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer)の生涯と作品を紹介。
バロック絵画の特徴の1つとして、明と暗(光と闇)の対比がある。同じオランダの画家、レンブラントの光と闇は深く、絵も精神性を追求する重いものが多い。一方、フェルメールの光はやわらかい間接光が多く、絵も日常風景を中心に描かれている。
フェルメール年譜
・1615年 後にフェルメールの父母となる、レイニール・ヤンスゾーン・フォスとディングナム・パルテンスが結婚。父は織物職人として活動するかたわら画商・宿屋を営んでいたが、若い頃に刃傷沙汰を起こすなど多少問題があったようだ。
オランダは1590年代に始まった経済の急成長(オランダの奇跡)により海洋貿易国としての地位を確立していく。17世紀のオランダはヨーロッパで最先端の産業技術を持ち、そのなかでも繊維産業は他の追随を許さない圧倒的な技術力を誇っていた。
・1631年 レイニール・ヤンスゾーン・フォスがデルフトの聖ルカ組合に画商として加入。
・1632年 ヨハネス・フェルメール誕生 当時12歳だった長女ヘールトライトに次ぐ2番目の子供だった。デルフトの新教会にて洗礼を受ける(10月31日)
・1635年 レイニール・ヤンスゾーン・フォスの住所が、フォルデスフラハトの宿屋「空飛ぶ狐」として文献に記載される(現在は骨董品店)ここがフェルメールの生家といわれている。当時、子供を画家にするには大金がかかったことから、フェルメールは比較的裕福な家で育ったと考えられる。
・1641年 後にフェルメールの義母となるマーリア・ティンスの親戚が、フェルメールが結婚後に住むことになる家をアウエ・ランゲンデイク通りに購入。
・1641年 レイニール・ヤンスゾーン・フォスがデルフトのマルクト広場に面した宿屋(居酒屋を兼ねる)「メーヘレン」を購入(現在は陶器店)フェルメールは少年時代をここで過ごす。
後にフェルメールの贋作を制作したことで有名になった男の名前も「メーヘレン」といいます。研究者もみんな騙されたオランダの天才贋作者=ハン・ファン・メーヘレン(1889年~1947年)
・1641年 マーリア・ティンス夫妻が離婚。
・1643年 ルイ14世即位
・1649年 イギリス、チャールズ1世処刑、共和国が成立
・1652年 フェルメールの父、レイニール・ヤンスゾーン・フォス死去。
・1652年 当時、経済大国のオランダはイギリスにとって最大の邪魔者(敵国)であった。そこでイギリスはオランダ商船の締め出しを狙った「航海条例」を発布する。これに憤慨したオランダがイングランドに宣戦。このオランダとイギリスの紛争は1670年代まで続くことになる。
「航海条例」はそのご「航海法」となり、ヴィクトリア時代まで約200年にわたり効力をもった。
・1653年 フェルメール(20歳)とカタリーナ・ボルネス(21歳)が結婚。妻の母親マーリア・ティンスは当初この結婚には反対だった。妻の母親は市長を出すような名門家系の出で家柄の違いがあったためと思われる。また、フェルメール家はプロテスタント、新婦の家はカトリックだったので、この結婚を機にフェルメールがカトリックに改宗したとの説がある。デルフトの画家、レオナールト・ブラーメルが結婚立会人を務めた(4月5日) フェルメールは43歳で死去するまでに14人の子宝に恵まれたが、そのうち4人の子供は幼い時期に亡くしている。
フェルメール夫妻は宿屋を継いで「メーヘレン」に住んだと言われてきたが、1660年の年末には妻の実家で暮らしていたことが判明している。ちなみに「メーヘレン」と妻の実家は歩いて1~2分の距離しかない。
・1653年 聖ルカ組合に親方画家として加入し、自作に署名すること、デルフト市内で絵を自由に売買すること、弟子をとることの3つの権利を得る。画家として独り立ちする(12月29日)
・1654年 デルフトが大火災に見舞われる。
・1654~1655年 「マルタとマリアの家のキリスト」
・1656年 「取り持ち女 」フェルメールの作品で年記があるのは、取り持ち女、天文学者、地理学者の3作だけである。物語画家として出発したフェルメールだが、早々に見切りをつけ、この「取り持ち女」の頃から風俗画家に転向していく。
・1656年~1657年 「眠る女」
・1657年 画商ヨハネス・デ・レニアルムの財産目録に、フェルメールの作品「聖墓詣」の記載がある。評価額は20ギルダー。絵は現存していない。
・1657年 フェルメールが、パトロンと推測されているデルフトの醸造業者で投資家でもある、ピーテル・クラースゾーン・ファン・ライフェンから200ギルダーの借金をする(11月30日)
フェルメールが画家として一人前と認められるようになったのが1653年。死去したのが1675年なので約22年間画家として活動したことになる。22年画家をして、現存する絵は37点しかなく、現存していない作品を考慮しても1年間で2点描くか描かないかのペースなので寡作な画家であったのは間違いない。それで妻と10人を超える子供を養い、ラピスラズリという高価な顔料を使えたのは、妻の実家が金持ちだったというのもあるが、このファン・ライフェンというパトロンの力によるところも大きかったと思われる。
・1658年~1659年 「窓辺で手紙を読む女」「兵士と笑う女」「牛乳を注ぐ女」「紳士とワインを飲む女」「小路」
手紙をモチーフにしたフェルメール作品は多く、全部で6点現存する。フェルメールが生きた17世紀のオランダは、ヨーロッパにおける金融、貿易の中心地であると同時に、芸術・文化面においても先進的な国であった。(国民の識字率も高かった) その中で郵便制度も他の国々に先駆けて発達する。モチーフに手紙を多用しているのは、当時、手紙をやり取りすることが、ちょっとしたブームになっていたためと思われる。
・1659年~1660年 「デルフト眺望」
・1660年 フェルメールの子供の一人が旧教会に埋葬される(12月27日)
・1660年~1661年 「ワイングラスを持つ娘(2人の紳士と女)」「稽古の中断」
・1661年 義母のマーリア・ティンスがフェルメールと娘のカタリーナ・ボルネスの結婚を承認。既に結婚してから8年たっていた。
・1662年 フェルメールが聖ルカ組合の理事に就任。30歳前後での理事就任はデルフトでは史上最年少と言われ、この時点で画家としてのフェルメールの評価が非常に高かったことが窺い知れる。音楽の稽古
またデルフトの射手組合の名簿(1663年~1674年)にもフェルメールの名前がある。射手組合の会員になる人は、経済的に余裕のあるエリートに限られていたので、当時のフェルメール家はそれなりに豊かだったことが推測される。
・1662年 イギリス、王立協会設立
・1663年 フェルメールを訪ねたフランス人の美術愛好家の日記 「デルフトでフェルメールに会ったが、彼は自分の作品を1点も持っていなかった。パン屋で600ギルダーの作品を1点見たが、一人しか人物の描かれていない作品なので、私は60ギルダーでも高過ぎると思う」
・1662年~1665年 「窓辺で水差しを持つ女」「青衣の女」「真珠の首飾りの女」「天秤を持つ女」「リュートを調弦する女」
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・1664年 フェルメールが薬屋に借金をした記録(2月9日)
・1665年 ピーテル・ファン・ライフェンの妻がフェルメールに500ギルダーの贈与(10月19日)
・1665年~1666年 「手紙を書く女」「真珠の耳飾の少女(青いターバンの少女)」「合奏」
・1666年~1667年 「絵画芸術」
・1667年 デルフト市誌で存命画家の一人としてフェルメールが紹介され、カレル・ファブリティウス の後継者として称賛される。
・1667年 フランス軍、オランダを侵略(~68)
・1667年~1668年 「女と召使」
・1668年 「天文学者」
・1668年~1669年 「少女」
・1669年 「地理学者」
・1669年 レンブラント死去(10月4日)
・1669年~1670年 「レースを編む女」
・1669年~1671年 「恋文」「ヴァージナルの前に立つ女」
・1670年 フェルメールの母が死去(2月13日) フェルメールの姉が死去(5月2日)遺言により400ギルダーの遺贈を受ける。聖ルカ組合の理事になる。
・1671年 引き続き聖ルカ組合の理事を務める。
・1670年~1672年 「手紙を書く女と召使」
・1672年 オランダ戦争、フランス軍、オランダを侵略(~78) イギリス・オランダ戦争(第三次~74) オランダ経済は急速に悪化して行く。
・1672年 「メーヘレン」を年間180ギルダーで賃貸に出す(1月14日) アウデ・ランゲンダイクに移り住む。
・1672年 ハンス・ヨルダーンスとともにハーグに呼ばれ、イタリア絵画を鑑定する(5月)
・1673年~1674年 「ギターを弾く女」
・1673年~1675年 「信仰の寓意」
・1674年 この年までのデルフト市民防衛隊の名簿にファン・デル・メール(フェルメール)の名前あり。
・1674年 フェルメールが1,000ギルダーの借金をした記録(7月)
・1675年 「ヴァージナルの前に座る女」
・1675年 フェルメール死去 享年43歳 12月16日デルフト旧教会に埋葬される。8人の未成年児を残す。
妻のカタリーナがフェルメールの晩年を振り返った記録が残っている。「夫は戦争の間、自分の作品を売ることができなかったのみならず、扱っていた他の作家の絵を抱えて損害を被るばかりでした。子供も抱えてたので、夫はそのことをひどく苦にし、ある日は元気かと思えば、ある日は病気という具合でした」
ただ、フェルメール没後に、カタリーナとマーリア・ティンスの間で不可解なカネの流れがあり、実際に貧しかったかどうかは分からない。フェルメール研究で知られる小林頼子氏は、フェルメール 一家の晩年の貧窮およびフェルメール没後の貧窮は、財産保全を目的とした「装われた貧しさ」だと指摘している。
・1676年 未亡人となったカタリーナがパン屋への借金617ギルダーのかたに(完済後には返却の約束で)手紙を書く女と召使とギターを弾く女を引き渡す(1月27日)
・1676年 カタリーナが母に絵画芸術を譲渡(2月)
・1676年 カタリーナが自己破産を申請(4月) 17世紀にあっては自己破産は市民として恥ずべき行為とされていた。それにも関わらずカタリーナの母マーリア・ティンスは、娘と亡き夫フェルメールが彼女に負っている債務を一銭たりとも放棄しようとせず、他の債権者に優先して娘から返済を受ける権利があると強硬に主張した。その結果の自己破産である。ちなみにマーリアは、1674年の時点で年収1500ギルダー、財産2万6000ギルダーを持つ資産家で、娘の借金など容易に肩代わりできたはずである。それと並行しマーリアは債権者の手の届かぬ孫たちに自分の財産が相続されるよう手を打ち続け、家族の外にカネが流れないようにした。
・1676年 マーリア・ティンスが財産の全てを孫(フェルメールの子供)に遺贈すると遺言状を書き換える(9月25日)
・1676年 アントニ・ファン・レーウェンフックがフェルメールの遺産管理人となる(9月30日)
・1680年 マーリア・ティンス死去(12月27日)
・1687年 カタリーナ死去(12月30日)
・1696年 アムステルダムでフェルメールの作品21点が競売にかけられる(5月16日)
・1866年 美術批評家で画商のトレ・ビュルガーがデルフト眺望などを称賛しフェルメールの作品が注目を浴び始める。
◆真作か非真作か? フェルメールの作品か意見が分かれるもの
・1655年頃 聖女プラクセディス
・1655年~1656年 ダイアナとニンフたち
・1665年~1666年 赤い帽子の女
・1665年~1670年 フルートを持つ女
・1670年頃 ヴァージナルの前に座る若い女←真作に認定
◆カメラ・オブスクラ(Camera Obscura)
いくつか整合性のない作品もありますが、基本的にフェルメールは透視法(遠近法)に厳格に則って描く画家でした。そのこともあってか、フェルメールが絵画の作成に際しカメラ・オブスクラを使っていたとの説もあります。
カメラ・オブスクラとは、現在のカメラの前進となったものです。どのように使ったかと言うと、まず人が入れる大きな箱を用意し、片方に小さな針穴(ピンホール)を開ける。すると光が針穴を通り、外の光景の一部が穴と反対側の壁に上下が逆さまに映し出される、これをカンヴァスにトレースすると実際の光景に忠実な下絵をつくることができるという仕組み。16世紀には鏡やレンズがカメラ・オブスクラに使用されるようになり、小型のものも開発された。
カメラ・オブスクラは、実際、絵を描くための装置として芸術家の間で活用されていたが、フェルメールが使っていたというのは、あくまで推測です。
◆フェルメールが使ったとされる透視法(遠近法)
当時は遠近法のことを透視法とも言っていました。フェルメールが使った遠近法とは、まず水平線を引き、その中心に消失点を定め、椅子やテーブル、窓、壁などをがその延長線にあるように描きます。フェルメールは作品に立体化感を出すため消失点を2点使用する2点透視図法を使っていたと言われる。その際、紐とチョークを使うため作品には鋲の穴が残っているものもあります。
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◆フェルメール・ブルー
「真珠の耳飾の少女」のターバン等に見られる美しい青色、それは宝石ラピスラズリを砕いた天然ウルトラマリンブルーで描かれている。(ウルトラマリンブルーの和名は瑠璃色)当時ラピスラズリは「天空の破片」とも呼ばれ、金(Gold)と同等の価値がある貴重なものであった。フェルメールはこの青を愛し借金を抱えながらも使い続けたという。フェルメールブルーはまさに宝石の輝きなのだ。
ラピスラズリとフェルメールブルー
◆フェルメールの作画方法
●支持体:カンヴァスを使用している。「赤い帽子の女と」「フルートを持つ女」はパネル(板)に描かれているが、この2点に関しては真作か非真作かで意見が分かれている。
●縦型・横型:フェルメールの作品は登場人物が少ないこともあり、縦型の作品が圧倒的に多い。横型の作品は「紳士とワインを飲む女」「稽古の中断」「デルフト眺望」の3点のみ。
●顔料:ヘルマン・キュンの調査報告によれば、当時の一般的な顔料を使用しているという。例えば、白については鉛白が多用されており、これは18世紀以前に特有の白色顔料である。黄色には、鉛錫黄、インディアン・イエロー、オーカー(土性)系の顔料が使われている。ただし青の顔料に関しては、上記のフェルメールブルで解説したように、特別のこだわりを持っていたようだ。
●描法:これも同時代の画家と変らない方法で、 地塗り、下描き、デッド・カラリング(下塗り、アンダーペイン
ティング)、彩色、グレース、ニスといった順である。ただしフェルメールは、下描きをあまり厳密に行わず、下塗りの段階で絵具で大まかな図様を描くのみだったと言われている。下塗りの層にモノクロームに近い色彩を塗布(デッド・カラリング)し、場所によってモチーフに応じた色を施す。このデッド・カラリングを効果的に使うことで、フェルメール独特の微妙な明暗と光の表現が生まれたと考えられる。
フェルメール美術館ガイド
[アメリカ・ニューヨーク]メトロポリタン美術館
所蔵作品:「眠る女」「窓辺で水差しを持つ女」「リュートを調弦する女」「少女」「信仰の寓意」
[アメリカ・ボストン]イザベラ・スチュワート・ガードナー美術館
所蔵作品:「合奏」 ←現在行方不明
[アメリカ・ニューヨーク]フリック・コレクション
所蔵作品:「兵士と笑う娘」「稽古の中断」「女と召使」
[アメリカ・ワシントン]ナショナル・ギャラリー
所蔵作品:「天秤を持つ女」「手紙を書く女」「赤い帽子の女」「フルートを持つ女」
[オランダ・アムステルダム]アムステルダム国立美術館
所蔵作品:「牛乳を注ぐ女」「小路」「青衣の女」「恋文」
[オランダ・ハーグ]マウリッツハイス美術館
所蔵作品:「デルフト眺望」「真珠の耳飾の少女」「ダイアナとニンフたち」
[フランス・パリ]ルーヴル美術館
所蔵作品:「天文学者」「レースを編む女」
[ドイツ・ベルリン]国立絵画館
所蔵作品:「紳士とワインを飲む女」「真珠の首飾りの女」
[ドイツ・ブラウンシュヴァイク]ヘルツォーク・アントン・ウルリッヒ美術館
所蔵作品:ワイングラスを持つ娘(2人の紳士と女)
[ドイツ・ドレスデン]アルテ・マイスター絵画館
所蔵作品:「取り持ち女」「窓辺で手紙を読む女」
[ドイツ・フランクフルト]シュテーデル美術館
所蔵作品:「地理学者」
[オーストリア・ウィーン]美術史美術館
所蔵作品:「絵画芸術」
[スコットランド・エディンバラ]スコットランド国立美術館
所蔵作品:「マルタとマリアの家のキリスト」
[イギリス・ロンドン]ナショナル・ギャラリー
所蔵作品:「ヴァージナルの前に立つ女」「ヴァージナルの前に座る女」
[イギリス・ケンウッド]ケンウッド・ハウス
所蔵作品:「ギターを弾く女」
[アイルランド・ダブリン]アイルランド国立絵画館
所蔵作品:「手紙を書く女と召使」
フェルメール盗難事件簿
・1971年ベルギーの首都ブリュッセルのパレ・デ・ボザールで行われた展覧会場から、フェルメールの恋文がナイフで切り取られ盗まれる。その後、「恋文」は犯人の自室のベットの下から、枕カバーに包まれた状態で見つかるが、作品は深刻なダメージを受けた。捕らえられた犯人は21歳のホテルのウェイターで、インドの東パキスタン難民の窮状を知り、2億ベルギーフランの援助とアムステルダム国立美術館とパレ・デ・ボザールが国際的な反飢餓キャンペーンを行うことを要求していた。当時のベルギー国内には、犯人を英雄扱いするマスメディアもあった。
・1974年2月23日の夜、「ギターを弾く女」がロンドンの美術館、ケンウッド・ハウスから盗まれる。その部屋には、レンブラントやフランス・ハルスなどもあったが、持ち出されたのはフェルメールだけだった。事件からしばらくたってから、この作品と引き換えに、無期懲役刑に処せられているIRAのプライス姉妹(シスターズ)をロンドンの刑務所から北アイルランドの刑務所に移送せよとの要求が犯人から出される。その後も犯人からの執拗な脅迫が続くが、イギリス政府は彼らの要求を無視した。
5週間後の4月26日の夜、今度はダブリン郊外の私邸ラスボロー・ハウスから、フェルメールの「手紙を書く女と召使」やゴヤの「ドーニャ・アントニア・サーラテの肖像」など19点の絵画が盗まれる事件が起きる。その犯行は女性主導で行われた。一週間後に届いだ犯人からの要求は、同じくプライス姉妹の北アイルランド移送と、50万ポンドの身代金だった。脅迫状には要求が受け入れられなければ、絵は破壊されると書かれていたが、イギリス政府はこちらの要求も無視した。その後、別件で逮捕されたIRAメンバーの宿泊先から「手紙を書く女と召使」が無事保護され、その翌々日「ギターを弾く女」も匿名の電話があり、バーソロミュー教会で無事保護された。保存状態はよく、絵はケンウッド・ハウスに戻った。
・1986年 ラスボロー・ハウスからまた「手紙を書く女と召使」を含め11点の絵画が盗まれる事件が起きる。この事件はダブリンで伝説的な大泥棒、マーティン・カーヒルとその仲間の犯行で、盗んだ絵を闇のルートで売ることが目的だった。しかし、絵は売れず、おとり捜査のかいもあって7年後のベルギーで絵は保護された。
・1990年3月18日の早朝、米国ボストンのイザベラ・スチュワート・ガードナー美術館でフェルメールの「合奏」やレンブラント、マネ、ドガなど合計13点が盗まれる史上最大の美術品盗難事件が起きる(被害総額は数百億円) 犯行はボストンの警察官を装って侵入するという大胆なものだった。目撃者がいたにも関わらず事件の捜査は当初から難航。その後、容疑者と目されていた人物が死亡したこともあり、現在捜査の手掛かりは殆どなくなっている。現在もガードナー美術館から500万ドル(4億円)の懸賞金が出されているが、フェルメールの合奏は行方不明のままである。参考文献:小林頼子・朽木ゆり子 『謎解きフェルメール』